覚悟のときに、私たちは何を語れるだろうか

はじめに:心を動かされたひとつの話

中小建設業専門の経営コンサルタント長野研一です。

先日、ある教養の深い方と話していて、思わず胸を打たれた話をうかがいました。その方は元現場監督で、人生経験も豊富な方です。

話題になったのは、古事記に記されている、日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃・弟橘比売命(おとたちばなひめ)のエピソードでした。

「これは、惻隠の情(そくいんのじょう)というものを、まさに表している話だと思うんですよ」と、その方は静かに語りました。

惻隠の情とは、相手の立場に立って感じとる、いわば「深い思いやり」のことです。孟子の思想に由来し、日本の文化や精神性にも強く根付いています。

この言葉が、経営者である皆さんにとってどんな意味を持つのか。今日はこのテーマを、少し違う視点から掘り下げてみたいと思います。

荒れる海に身を投じた妃の言葉

物語の舞台は、古代の東征。日本武尊は各地の平定に向かう途中、相武国造にだまされ、火攻めにあいます。そのとき、倭比売命(やまとひめのみこと)より賜った草薙剣で難を逃れ、なんとか焼津を脱出しました。

その後、走水海に至ると、海は荒れに荒れて、船を出すことができません。海神の怒りを鎮めるためには、人身御供が必要だとされていました。

そのとき、自ら海に身を投じたのが、弟橘比売命です。

彼女は、こう念じたといいます。

「私は夫である皇子の身に替わって海に入ります。どうぞ、皇子の東征を護らせ給え」

そして、菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を重ねてその上に座し、海に身を沈めていったのです。

彼女が残したのは、たった一首の歌でした。

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも

この歌は、相武の野で火攻めにあったとき、自分を気づかい助けに来てくれた夫への、感謝の歌です。いま自ら海に身を投げるという場面で、悲しみでも恨みでもなく、「ありがとう」と言葉を残す――これが、弟橘比売命の覚悟だったのです。

「惻隠の情」とはなにか

孟子が説いた「惻隠の情」は、人間が本来持っている「思いやりの心」なのだそうです。たとえば、目の前で子どもが井戸に落ちそうになっていたら、誰だって思わず助けに行こうとする。その自然な感情が、惻隠の心です。

惻隠の情は、いわば「自分を超えた相手への想像力」です。

弟橘比売命は、自分の命のことを言葉にせず、ただ夫の未来と、その志を守ろうとしました。その心には、決して見返りを求めない、深い思いやりがあったのではないでしょうか。

では、経営者はどうか

話を現代に戻しましょう。

われわれ経営者にとって、「覚悟のとき」とは、いつ訪れるかはわかりません。たとえば、資金繰りが厳しいとき。社員の人生を左右する決断をしなければならないとき。あるいは、自らの体調や引退をめぐる選択を迫られたとき。

そのとき、あなたは何を語れるでしょうか。どんな言葉を遺せるでしょうか。

経営とは、利益を生むことが目的ではありません。人の暮らしを支え、未来をつくる責任を担っています。その責任に向き合う「覚悟」が問われる瞬間が、誰にでもやってきます。

「ありがとう」を伝える力

板垣退助が刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と語ったという話があります。しかし実際は、「痛い、医者を呼んでくれ」と叫んだのだとも聞きます。

もちろん、痛いのは当然です。人間だから。英雄であろうが、誰であろうが、命がかかれば恐怖も感じますし、取り乱して当然です。

それでも、弟橘比売命は「ありがとう」という歌を残した。

私は思うのです。「覚悟」とは、死を前に取り乱さないことではなく、「いま言うべき言葉を選べること」なのではないかと。

経営者もまた、厳しい局面であっても、「ありがとう」「あなたのおかげだ」と言える人でありたいものです。

経営者の備えとは何か

覚悟は、突然訪れるものです。しかし、「覚悟しておくこと」は、日々の鍛錬で可能です。

たとえば――

  • 大切な社員に、普段から「ありがとう」を言っておくこと。

  • いざというときのために、後継者に考え方を少しずつ伝えておくこと。

  • 判断を迷ったとき、「自分の都合」ではなく「誰のためか」を問い直すこと。

こうした積み重ねが、いざというときの「言葉の力」になるのだと思います。

経営者は、目の前の数字を見るだけではなく、10年後の未来、そして社員の家族の顔まで見通して判断する人です。だからこそ、「覚悟のときに、言葉を選べる人」である必要があるのです。

おわりに:あなたにとっての惻隠の情とは

弟橘比売命の行動は、現代の私たちには想像もつかない「覚悟」の姿かもしれません。

でも、私たちにも、彼女のような心を持つことはできます。

それは、「惻隠の情」を大切にすること。経営者として、仲間として、家族として、他者の立場に立ち、思いやること。そして、「いざというとき、どんな言葉を選ぶか」を、日々心に問うこと。

経営者の役割とは、未来を守ること。そして、未来に向けて「誰かのために言葉を選ぶ」ことでもあるのです。

あなたは、覚悟のときに、何を語りますか。私自身も、覚悟を決めなくてはならないときに、ほんとうに感謝の言葉を伝えるべき人に伝えられるだろうか…と考えています。板垣退助ですらくだんの有り様ならどうなのだろう、とも思いますが。